こっちにおいでよぉぉ・・・・
僕は子供の頃、東京の外れに住んでいました。
森林に覆われた丘陸地帯に囲まれた、都内とは名ばかりの外れた町でした。
遊戯施設などはほとんどないような場所でしたが、町外れに町営の小さなスケート場がありました。
夏場はプールとして利用されるところを、冬にはコンクリートの底に浅く水を張り、スケート場として開放していたのです。
当時、小学生だった僕は、テレビで見たフィギュアスケートにすっかり夢中になっていて、その年の冬休みには、連日、夕方五時の閉場まで、その小さなスケート場に通いつめていました。
僕が奇妙な体験をしたあの日も、いつもと同じように、僕はスケート靴を抱えてリンクへ向いました。
子供に特有のあの熱心さで練習を続け、気づいた時には五時を知らせる町役場のチャイムがあたりに鳴り響いていました。
山あいの町では平地よりもずっと早く日が沈みます。
冬のことでもあり、すでにあたりはすっかり夕闇の中に沈んで薄暗くなっていました。
足を止め、あたりを見まわすとリンクの上にいるのは僕一人でした。
まわりにある休憩用のベンチにも人影は全くありませんでした。
それに気づいた時、僕はなんとも言えないいやな気分に襲われたのです。
そこはもともと利用者が少ない場所であったし、ましてや、ナイター設備もない野外で、陽も落ちて冷たい夜風が吹き始めるまでスケートに没頭するような物好きはほとんどいませんでした。
閉場のころに僕ひとりだけが残っているようなことは、決して珍しいことではなかったのです。
なのに、その時だけはひとりっきりで冷え冷えとした空気に晒されながら薄暗いリンクの氷の上に立ってることが、やけに不安なものに思えたのです。
昼間のうちは表面が溶けてシャーベット状になっていたリンクも再び凍りつきはじめています。
その鋭く光を反射する表面に、一瞬何か人影のようなものが映った気がして僕は慌てて振り向きました。
しかし、当然そこには誰もいません。
どうにも心細くなり、いつもなら管理人が追い出しにくるまで粘るところを、途中で切り上げて、僕はいそいでリンクの出口を目指して滑っていこうとしました。
その時です。
どこかで小さな音がしました。
それは、小さくひそめた人の囁き声のように聞こえました。
僕はゾッとして反射的に逃げ出しそうになりました。
しかし音の原因が分からないままでいることは余計にいやな気がして、怖いのをこらえてリンクの中央へ振り向き、あたりを見渡しました。
それでもやはり、リンクの上には何も見当たらないのです。
<なんだ。きっと町の物音が風に流されてここまで聞こえてきたんだ>
子供ながらに、僕は理屈の通る答えを自分で思いつき、それに励まされるように管理人が来るまでのあいだ、もう一周だけリンクをぐるっと滑ってみることにしました。
その途中、ちょうどリンクの中央あたりでなにかがクッと、エッジに引っかかったのです。
僕はエッジを立ててその場に止まったのと同時に、ふたたび声が聞こえてくるではありませんか。
今度ははっきりと人の声、しかも僕の名前を呼ぶ声でした。
僕は一瞬にして恐怖のあまり凍りつきました。
そのあいだにも、声は僕の名前を何度も呼び続けています。
そして、どうやらその声は、すぐ近く、僕の足元のあたりから聞こえてくるようなのです。
僕は怖さで動きもままならない首を無理矢理ねじるようにして足元の氷の上へ視線を落としました。
そこには子供の姿がありました。
僕の姿が氷の表面に映っていたのではありません。
まるでガラス窓を覗くように、見知らぬ子供が向こう側から氷の裏に両方の手のひらを押し付けて、じっと無表情にこちらを覗きこんでいるのです。
身動きすらできずに凝視しつづける僕と目が合っても、その子供は少しも表情を変えませんでした。
頬のこけた青白い顔のなかで、目だけが黒々と大きく、異様な光を宿してこちらを見ていました。
やがて子供は、その血の気が失せた紫色の口を開きました。
『・・・・・・こっちにおいでよぉぉ・・・・・・おいでよぉぉ・・・・ぉぉぉぉ・・・・・』
キイキイと金属をひっかくような何とも気味の悪い声が、氷の上に響きました。
そして子供は僕に向って手を伸ばしてきたのです。
信じられないことに氷の表面から白い指先が何かを探し求めるようにうごめきながら突き出されてきたのです。
やがてその指は、僕の足首をしっかりと握り締めました。
そして次には手首が、腕が、ジワジワと氷の中から現れてきたのです。
僕が覚えているのはそこまでです。
母の話では、誰もいない夕暮れのスケートリンクの上で放心状態ですわりこんでいた僕を管理人が見つけてくれたのだそうです。
そのとき僕は全身冷え切って、目は開いているものの話しかけても反応しない状態で、すぐに運び込まれた病院の先生の話では凍死寸前だったのだそうです。
そのあと僕は一週間ほど入院しました。
退院するほど回復したころには、足首をつかまれたあとの記憶をまったく失っていたのです。
あのあと、僕自身の身に何が起こったのか。
それはいまだに謎のままです。