高田牧場(武家屋敷)
心霊スポット名:高田牧場(武家屋敷)(たかだぼくじょう(ぶけやしき))
正式名称は高田牧場だが、通称「武家屋敷」として知られている。
もともと豚、牛羊、山羊などの家畜を飼育していた畜産農家の豪邸だが門構えが武家屋敷のようなため、武家屋敷と呼ばれている。
他にも「稲美の館」「宗佐の屋敷」とも呼ばれているようだ。
過去に弾圧された使用人が一家を惨殺し地中や井戸に埋めたとされ、その一家が霊となって現れる、また集団自殺の現場だというウワサもあるが、そのような事実は確認できていない。
牧場をたたんでからボーイスカウトの屋外実習場として使われ、そのあとには酒造会社に売却されたがバブル崩壊により土地は放置されて荒廃が進んでいった。
この高田牧場は、いくつかの廃屋で成り立っていて、すでに崩壊してしまっている廃屋もある。
肝試しに来た者の袖を引っ張る子供の霊や、車で来た者には無数の手形がガラスに付いたり後部座席には見知らぬ男が乗っていたり、この屋敷では様々な心霊現象が報告されている。
また心霊現象の報告には女性の霊が多くみられ正面の門を入った所で着物姿の女性の霊が立っていたとか、藪の中から女性が見ていた、屋敷の中におぼろげに光が見え、見に行くと無数の人影にまじって薄笑いを浮かべる髪の長い女性がこちらを見ていたという話もある。
心霊体験など多く報告されるが、この場所ではウワサ以外に怨念が渦巻くなにかがあったのだろうか。
この敷地内のどこかに古井戸らしきもがあり、これを見た者は呪われるとも噂されている。
相坂トンネル
心霊スポット名:相坂トンネル(あいさかとんねる)
1921年に完成したトンネルで全長76m、高さ2.9m、幅2.45m。全体の70%がレンガ製でできている。
とても古いため雰囲気があり地域の方々の抜け道で人通りもまあまあ有る。
相坂トンネルの先にある暮坂峠では過去に死体遺棄も起きており、さまざまな心霊現象が報告される近畿地方でも有名な心霊トンネル。
1985年頃、この場所に女性の死体が遺棄されて、白骨化した状態で発見されるという事件があった。
この事件以来、深夜にこの峠を通ると赤い服を着た顔半分が白骨化した女性の幽霊が現れ、峠を通る車をジッと見ているのだという。 この女性の幽霊は犬を連れていたという話もある。
さらに2000年には、姫路市亀山の山本修とその妻が、妻の連れ子の6歳だった息子のR君を虐待死させ、暮坂峠の山中に遺棄するという事件も起きている。
遺棄する際には子供の身元が分かない様に、頭部に石を投げ落としたという情報も。
近辺では自殺も多く起こっているといわれ土地自体が呪われているのではないかともいわれている。
そのためトンネル一帯には様々な怪現象の体験談などがある。
このトンネルを通過すると突然エンジンが止まり、目の前に顔の焼け爛れた女性の幽霊が現れたり、フロントガラスに手形がついていたり、火の玉が現れるといった話や、トンネル内で耳を澄ますとひそひそと話し声が聞こえたり女性の顔が写った心霊写真も撮れるといった話もあるようだ。
仁川ピクニックセンター
心霊スポット名:仁川ピクニックセンター(にがわぴくにっくせんたー)
西宮市のシンボルである甲山の麓、旧仁川ピクニックセンター付近は水生生物の観察やバードウォッチングなど、自然を楽しむ人たちの憩いの場となっている。
まだ仁川ピクニックセンターがあった当時は、とても人気があるスポットでキャンプやフォークダンスで賑わったが、レジャーの多様化などの影響により訪れる人は減少し閉鎖された。
そんな場所だが、ここの周辺では複数の殺人事件などが起きていて、心霊体験をしたというウワサも広がり心霊スポットとしても知られている。
1987年5月11日、大阪府豊中市職員の橋本は仁川ピクニックセンターで知り合った西宮市在住の57歳の主婦K子をわらび採りに誘い、乱暴しようとしたところ抵抗されたため五ケ池の東約300MでK子を殺し山中に埋めた。
捜査本部は現場を捜索したところ、白骨化した人間の頭部がみつかったという。
さらに1989年3月19日には、仁川ピクニックセンターで西宮市に住む11歳の少女M子を乱暴しようとしてM子が逃げようとしたので頭を地面に打ち付けて殺害した。
他にも、1974年3月19日、付近にある精神薄弱児施設「甲山学園」敷地内の浄化槽から男女2人の園児の遺体が発見されている。
このように悲惨な事件が起こったため、被害者は怨念となってさまよったのか、付近では怪奇現象が起こるという。
河原でキャンプをしていると、テント越しに中年の女性の声で「私の息子を知りませんか?」と尋ねられることもあるという。
その声が聞こえると金縛りにあい、何者かに足をグイッと引っ張られる現象が起こり、足には少女の手形が残り、翌日には足がパンパンに腫れ上がったという話もある。
トイレで男の子がメッタ刺しにされたというウワサもあり、トイレでは「痛いよぉ、お母さ~ん」という子どもの声が聞こえたり、殺害された我が子を捜す母親の霊が出没するといわれている。
ユネスコ会館跡
心霊スポット名:ユネスコ会館跡(ゆねすこかいかんあと)
1964年に兵庫県連合婦人会長によって発足されユネスコ活動の拠点にと造られた。
鉄筋2階建て、地下1階の床面積1010平方メートルの建物にはホール、会議室、宿泊施設等が備えられた。
財団法人兵庫県ユネスコ会館が運営をしていたが財政悪化のため1988年に企業研修を請け負う民間会社に売却されたが、バブル崩壊により閉鎖した。
そのまま放置され廃墟となり心霊スポットとして近隣で知られるようになった。
さらに1990年代前半にメディアに取り上げられたことにより一気に心霊スポットとして有名になった。
この廃墟にまつわる話としては、元々は精神病院であったとか宗教団体が集団焼身自殺をした場所というウワサがあるが、ちょうど財団がユネスコ会館を手放した時期と同時期に全く別の場所で宗教団体の集団焼身自殺がありニュース等で取り上げられたため、この施設と関連付けられたといわれているようだ。また、1993年頃に不審火によりユネスコは消失したため、その後、焼身自殺の話がよりリアル感が出たのだろう。
しかし、廃墟化したあと肝試しに訪れてきた者のなかには、白い人影を見た、霊に取り憑かれた、地下にあるボイラー室に人が座っていたとか苦しそうな呻き声を聞いたという恐怖体験をした者も多くいたという。
今は取り壊されてなくなっている。
摩耶観光ホテル
心霊スポット名:摩耶観光ホテル(まやかんこうほてる)
1929年11月にケーブル会社の福利厚生施設として開業され、戦前から温泉やホテルとなり1970年以降ホテル閉鎖後は学生のゼミ合宿やサークル合宿専用の「摩耶学生センター」として転用されたが1993年に使用停止。
その後の阪神・淡路大震災の影響により建物が損傷し立ち入り禁止となった。
廃墟マニアのあいだで有名な廃墟だが心霊スポットとしても知られている。
建物自体に霊が集まってくるといわれているが、とりわけ風呂場やトイレ危険というウワサがある。
現在は厳重に管理されているため侵入しないほうがよい。
摩耶山自体が霊山といわれていて近くの摩耶史跡公園ではテントを張るとうるさいぐらいに霊の声が聞こえるという話もあるようだ。
牛女伝説
心霊スポット名:牛女伝説(うしおんなでんせつ)
鷲林寺(じゅうりんじ)は牛女の伝説のお寺として有名で、牛女の伝説としては、芦屋・西宮市らへんのとある場所に牛の屠殺場があり、そこの座敷牢の中には牛頭の娘が閉じ込められていた。
しかし戦争で空襲に遭い、芦屋・西宮市一帯は壊滅してしまった。
壊滅した焼け跡には牛女が現れ、それを地元の新聞社が掲載した事で牛女の存在が知られるようになったという話がある。
鷲林寺が心霊スポット?として有名になったのは昭和50年代半ばに某週刊誌に掲載されて広まったためといわれている。
掲載された内容というのは、鷲林寺の荒神を祀る祠の周りを3周すると牛女が追いかけて来るというもの。
もとは荒神さんの眷属(けんぞく)として祠の両脇に牛をおまつりしていたため、この牛を見て誰かが牛女と言ったことがウワサとなったのが始めりで、後に牛女のウワサは荒神さんの祠から八大龍王をおまつりする洞穴へと変わっていった。
そして新たに鷲林寺の八大龍王をを祀る洞穴に牛女が閉じ込められていたなどのウワサが広まり、そこで牛女を目撃したある者は発狂してしまい精神病院に入ってしまったという話や、牛の鳴き声が聞こえてきても決して振り返ってはならず、振り返ると赤い半纏を着た牛頭の女性に鎌で殺されるという話などのさまざまな伝説が語り継がれている。
こうして夜の訪問者が増え、困ったお寺は「牛女は残念ながら引越しされました」という看板を出したところ訪問者の数は激減して静かになった。
しかし1999年夏頃にテレビ番組で放送されたことによりふたたび訪問者が増えた。
牛女伝説のルーツは件(くだん)という妖怪といわれている。
件とは19世紀前半ごろから日本各地で知られるようになった牛の体と人間の顔を持つ妖怪で、1940年頃からは人間の体と牛の頭部を持つとする説も出てきた。
この妖怪は牛から生まれて、人間の言葉で予言を残し、数日で死んでしまうという。
景福寺山
心霊スポット名:景福寺山(けいふくじやま)
姫路城の南西にある標高51mの低山。
中腹にある景福寺公園(ホテルロンドン跡地)は姫路城十景に選定されており、展望広場とお花見広場は多くの観光客も訪れる。
景福寺山は全体の七割を墓地が占めているといわれ、江戸時代から続く古い墓地が多く、姫路藩士、江戸期の豪商、初代青野ヶ原捕虜収容所所長の墓碑などが山中に散在している。
江戸時代中期の大名松平明矩の墓もあり、状態はかなり悪く墓所を取り囲んでいた石柱などは崩壊している。
無縁墳墓は数知れず、景福寺に回収されている墓石は100は軽く超えているとも。
景福寺はもともとは摂津國にあったが兵火のため姫路に逃れ、坂田町に寺を建立、その後、藩主酒井忠恭の時に松平家の菩提寺があったこの場所に変わったと言われている。
江戸時代後期の5代姫路藩主・酒井忠学の正妻の喜代姫の墓所も景福寺に並んでいる。
昔から武士の無縁仏の墓が多数存在するためか地元住人のなかには気味悪るものもいる。
麓には2005年頃まで焼け落ちたラブホテル「ホテルロンドン」の廃墟があった。
全焼は免れたもののホテルとして営業再開するには被害が大きかったためそのまま放置されていた。
このホテルが建てられる前、元々この場所にあった多数の武士の無縁墓地の上にそのまま造成していたため、このホテルが焼け落ちたとき、人々は祟りのせいではないかと噂した。
また、土地開発業者がこの土地を開発しようと何度も試みたが工事に係わった人達が相次いで亡くなるという事が起こりいわく付きの場所として言い伝えられているという。
現在、ホテルロンドンは撤去されて跡地は景福寺公園となっている。